ある日々への帰還

今日は、洗足学園大学での恩師、上埜先生の退官記念パーティ。
ボクは岡田先生の門下だったが、上埜先生には2年でアンサンブルを学んだ。
ちなみに、1年の時のアンサンブル担当の教諭は神谷百子先生。
上埜先生は非常にダンディで。
いつだってとても温和だった。
大学での専門は作曲科だったそうで。
ボクはこの人に「アンサンブルを邪魔せずに主張するタイコのあり方」って
いうものを学んだ。
本質的に、打楽器が発する音質は楽音ではない。
雑音である。
だが、それが演奏に溶け込む時に、初めて楽音として存在し得る。
言葉にすると凄く誤解を招くけど、ボクが感じ取ったのはそういうコトだ。
その中で、最も今自分に生きている感触はこんなことだ。
それは、「タイミング」のお話。
タイミングというものは、外部から感じて生み出されるものではない。
自分と楽曲が一つになった時に、自ずとそこに存在するものである。
ということ。
もちろん、そんなコトは言葉で学べたわけじゃない。
ボクがそれを感じ取れる授業をして頂けた、というコトである。
もちろん誤解かも知れない。
けど。
それは今でもボクの中できちんと生きている。


例えば、シンバルを一発打つ時でも。
曲を聴いて、指揮を見て、自分でリズムを刻んで打つ。
正確無比なタイミングで。
ところが、時間軸的にドンピシャリなタイミングが音楽的にそうとは限らない。
なぜなら、そこにはメロディ(=歌)が存在するから。
ポルタメントリタルダンドとか。
はたまた単純にオンタイムとか。
そういう画一的な記号が持つ、無限の幅を持つ時間軸の中で。
唯一タイミングをタイミング足らしめるのは歌である。
そういうコトだ。
だから、ボクは歌いながらタイコを叩く。
ソレを続けることだけが。
ボクが知ってる、ボクの中の音楽を光らせることが出来る唯一の方法だから。