afterdark

デタッチメントからコミットメントへの移行。
これが一つのテーゼであると仮定するのであれば。
とてもソフィストケイトされた形で体現し得た人の一人として。
ボクは村上春樹を挙げたいと思う。
もちろん、彼の偉大さや卑小さ、スポイルのされ方やデリケートな在り方。
そんなものはこのテーゼだけでは表現できないとは思う。
けれども、少なくとも一つの側面としては有効に機能する見方だと思う。


というわけで、彼が最近発表した作品「アフターダーク」を読んだ。
今回最も驚かされたのは、作品における「視点」である。
今までの村上春樹の作品では、常に視点は一人称(あるいは超越的な第三者)であった。
最近の作品、「海辺のカフカ」だってそうだった。
しかし、今回は読者を含む「私たち」という視点で物語が進行していく。
つまり、読者に対して物語の中に入ってくることを要求する。
彼が織り成す物語を体感するのは読者である。当然ながら。
しかし、織り成す側として、常に視点は一人称だったと思う。(例えば「ぼく」とか)
時間軸が明瞭に語られるが、ソレはたった一晩(終電から始発過ぎくらいまで)の
経過でしかない。
この短さも異例ではないかと思う。
少なくとも、ボクには異例に感じられた。
物語の全ては単独に語られるが、その全てはコミットしている。
そして、そのコミットは、読者だけが理解できる。
非常にサービス性の高い仕上がりだと思う。


かつて、東京都の地下で凄絶なテロが行われたことがある。
1995年3月20日に発生した「地下鉄サリン事件」。
狂信的なカルト教団による無差別な毒ガステロ事件だ。
村上春樹はこの事件に遭遇した人々に対するインタビュー作品を世に放った。
「アンダー・グラウンド」という。
この中で彼は問う。
「彼らは本当に特別な、通常の人達と思考も異なる別次元の存在なのか?」と。
ボク等が彼等ではない理由とは何か、そこに絶対的な境界は存在するか、と。
恐らく、この事件とその後の調査は、彼の深い部分を宿命的に直撃した。
元々あやふやであった(ろうと思われる)アイデンティティの拠って立つ基盤を。
人々の思惟と行動の帰結を。
一元的に理解出来ないことを(おそらく)再度確信したものと思われる。
今回の「アフターダーク」は、それに対する彼のプライヴェートな帰結ではないだろうか。
そういう風に感じるボクは懐疑的に過ぎるだろうか。
いつもながら考えさせられる作品だったと思うけれど。
今後も彼の作品を愛して行くことに変わりはなさそうだ。