Banana In ’42

その話を聞いたのは、ボクが高校二年生の秋のこと。
正確な日時は想い出せないが、平成元年、1989年の9月か10月ではないかと思う。


夏休みは家族での沖縄旅行とブラスバンドのコンクールに費やし。
前期に当選して活動していた生徒会の副会長の任期中であり。
休み明けから、秋口に予定されている遠足と文化祭、高校の90周年式典への準備を整え。
高校入学からガクっと下がった成績の言訳に河合塾へ通い。
とにかくお金が無いのでマクドナルドのバイトに精を出す。
なんつーか、非常に多忙な日々だった記憶がある。
精神的には、いくつかの恋愛における黒星とかもあって。
脆弱なボクの肉体は、確かに悲鳴を上げたのだと思う。


バイト中に突然感じた、視界への違和感。
翌日、総合病院で告げられた「即時入院」。
判明する病名と、以降の人生における長期的な失明の危機。
そんなわけで、この秋のボクの予定は全てキャンセルされ。
およそ一ヵ月半に渡る、都立豊島病院5F北病棟での入院生活が始まったのだった。


当時の5F北病棟は、脳神経外科と眼科の入院病棟であり。
なんとなく晩年的な澱みが漂う、スタティックな病棟だった。
ボクが運び込まれた眼科の部屋は男性6人の大部屋で。
白内障緑内障網膜剥離、糖尿病による眼底出血、といった方々が多く。
ありていに言って、10代の人間なんてボクとインターンの女の子だけだった。
その中で、毎日400mlのプレドニンを点滴され。
これにより低下した抵抗力によって面会謝絶となり。
活字を読むことも禁じられ。
窓際で光合成に勤しむお年寄りの話し相手をすることが自然と増えた。


お年寄りの多くは、自分の戦争体験を語りたがった。
ボクには当然無い経験なので、そこでの話題は、今でも結構覚えている。
その中で、特にインパクトがあった話である。*1


彼の任地はラバウル島。
階級は二等兵
熱帯の暑い夜と薮蚊、風土病に苛まれ。
士気を高度に保つ事は非常に難しかったと言っていた。
朝一番で総員整列の号令が掛かる前。
多くの兵は砂浜で柔軟体操をしたり、顔を洗ったり。
彼は、砂浜にあるバナナの木に登り、実を食べながら揺れていた。
もう2本ほどもいで、皆の場所へ戻ろうとしたその時。
突然米軍機の機銃掃射が始まったそうだ。


彼は、木に捕まり、風に揺られ、バナナを頬張りながら。
次々に機銃掃射の露と消える戦友たちをぼんやり眺めていたそうだ。
砂浜に動く人影が無くなる頃には、既に米軍機は海の彼方へと消えており。
ほぼ全滅状態にある連隊を見て、残ったバナナを食べたと言う。


ボクは未だに、この話に対してどのような感慨を持つべきか決定できないでいる。


「そう、俺はその時、ブラーリブラーリと揺れる木にぶら下がってバナナを食いながら。
 戦友たちが次々に赤い煙を空中に残して砂浜に倒れるのをずっと見てたんだよ。」

*1:前置き長いね。(^_^;